第13回新南陽護国神社しめ縄奉納・境内清掃環境整備奉仕

令和元年12月22日日曜日、第13回新南陽護国神社にしめ縄奉納、境内環境整備を老人クラブ新堤つるかめ会15名の援を頂き総勢30名で奉仕しました。

◆富田護国神社「新南陽護国神社」の由来(引用・富田地史跡より)◆

◆新南陽護国神社は、明治2年、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。山崎隊は、慶応元年(1865)に徳山藩が農・町民の有志150人(のち230人)によって編成しました。当初は、富田村庄屋の岩崎庄左衛門を賄方として「富田隊」として創設され、新町の浄真寺に陣が置かれました。慶応二年(1666)の四境戦争では、主に徳山周辺の防衛を務め、翌年には小倉城防備にあたり、さらに京に進んで鳥羽・伏見の戦いに、明治元年(1870)には、秋田に上陸したのち北海道での戦闘に参加しました。明治三年の脱退兵鎮圧まで徳山藩の主力として戦いましたが、明治四年、徳山藩が山口藩と合併する際に解散しました。

◆昭和14年に現在の地を富田町民3000有余の労働奉仕により1000坪の敷地を開拓し昭和16年に永源神社が落成し招魂場の山崎隊戦没者23名の御霊を祀りました。昭和44年護国神社となり周南地区戦没者1223柱が祀ってあり毎年5月1日が祭典となっております。 戦争の悲劇を知らない時代となりましたが、今ある平和と繁栄は若くして純粋な気持ちで国の為に命を捧げた英霊のお陰です、永久に感謝と慰霊の気持ちを忘れてはなりません。

◆新南陽富田出身の飯田房太中佐を偲ぶ◆山本二雄

富田尋常小学校二年生の昭和16年12月8日大東亜戦争が始まり寒い朝、全校生徒が運動場に整列し開戦の訓示があり富田平野出身の飯田房太大尉が真珠湾攻撃で戦死されたことを知りました。

当時の男の子には飯田さんは憧れの的でした。真珠湾攻撃で第二次攻撃隊第三制空隊長として零戦に搭乗、僚機を率いて航空母艦蒼龍を発艦しカネオ飛行場を襲撃し大戦果を挙げましたが、対空砲火で燃料タンクが被弾し帰艦不能と判断した飯田大尉は、母艦に帰投する僚機をを誘導し、その進路を示した上で、僚機に手を振って別れを告げ、傷ついた愛機を操縦してカネオへ引き返し飛行場へ突入し自爆散華されました。戦死後二階級特進され海軍中佐となられました。

米海軍は、飯田中佐の勇気を称え基地内に埋葬。真珠湾攻撃三十周年の1971年に記念碑を建立しました。米国人の腹の奥深さに頭が下がります。

◆故飯田房太海軍中佐◆

◆ 奉仕活動ミーティング ◆

◆ しめ縄制作 風景◆ 藁 打ち

しめ縄  締めはじめ

 

 

 

 

清掃作業

新南陽若山ライオンズクラブ

新南陽若山ライオンズクラブ

 

新堤つるかめ会

 

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