新南陽富田護国神社しめ縄奉納・清掃奉仕

※令和5年12月24日(日) 9時~12時迄、新南陽ライオンズクラブと合同にて新南陽富田護国神社にしめ縄2本を製作し奉納、境内の清掃奉仕を開催致しました。 

                ※ 新南陽若山LC大内幹事 開会手順説明

※新南陽LC藤井会長 挨拶             ※新南陽若山LC  原副会長 挨拶

※ 一同会長に合わせて拝礼

※清掃作業                             ※ 倒木処理

※しめ縄 制作む

※ 鳥居しめ縄奉納

※ 全員集合写真、奉仕活動後のすがすがしい皆さんの顔つき

飯田房太中佐を偲ぶ                       山本二雄 ネット参考        新南陽富田護国神社は慶応1年4月(1867年)に富田地区農民、村民がが結集し徳山藩山崎隊として明治維新の先駆けとして尊い若い命を捧げた23柱を明治2年7月に永源山に招魂場として建立、昭和14年に富田地区町民3000有余の労働奉仕により1000坪の敷地を開拓し昭和16年に永源神社が落成しました。昭和44年護国神社となり周南地区戦没者1223柱が祀ってあります。毎年5月1日が祭典となっております。今ある国の平和と繁栄はこの地に眠る尊い御霊のお陰です。さて飯田房太中佐は大正2年2月12日(1913年)山口県都濃郡富田村(現在の周南市平野)で出生され、1925年徳山中学校(現在の徳山高校)に進学、卒業後1931年4月に海軍兵学校に入学し1934年に5番目の成績で卒業され少尉候補生として艦隊勤務ののち少尉に任官、1936年12月に霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生となり1937年第28期飛行学生教程を首席で終了したのち大尉に進級し(一部省略)空母「蒼龍」に配属されたのち霞ヶ浦航空隊の教官も務め航空母艦「蒼龍」の分隊長として復帰、1941年昭和16年12月8日あの忌まわしい米英に対する宣戦布告では真珠湾攻撃に参加、飯田大尉率いる中隊はカネオ海軍航空基地を機銃掃射し成果を上げたが、飯田大尉の操縦する「零戦」21型は燃料タンクに被弾し、中隊僚機が帰還する航空母艦「蒼龍」の方向を示した上で、燃料切れを意味する手信号で僚機に知らせたのち手を振って別れを告げカネオ海軍基地格納庫に向かって突入自爆されました。のちに米海軍は飯田中佐「二階級特進で中佐」の勇気を称え自爆地点に慰霊碑を建立、アメリカ国民の人間尊重の寛容の心に頭が下がます。  山口県でも撃墜されたB29乗員の手厚い供養をされたことを耳にしております。

※さて、忌まわしい太平洋戦争布告は私が小学校2年生の昭和16年12月8日の出来事です、寒い粉雪が舞う運動場に全生徒が整列し、校長先生から開戦の知らせ、真珠湾攻撃で飯田大尉が戦死されたこと、戦争に対する心が前の訓示がありました。その当時の男の子は兵隊さんに憧れ特に同じ富田出身の飯田中佐は憧れの的でした、ネットで見ますと、飯田中佐は出撃前日、列機を集めて「この戦は、どのように計算しても万に一つ勝てる勝算は無い、私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない、私は明日の栄えある開戦日に自爆するが、皆はなるべく長く生き延びて国の行方を見守ってもらいたい」このことはその日のうちに艦内全員に口外する事を禁止されたとのことです。帰艦できないほどの被弾ではなかったともされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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