◆ 義兄の献眼 ◆
平成27年8月義兄が96歳で亡くなり9人目の崇高なる献眼となりました。兄は大工でしたが一枚の赤紙召集令状により江田島海軍兵学校に入隊し戦艦日向の戦闘員としてお国の為に尽くし、終戦を迎え無事に帰って来ました。昭和21年に長姉と結婚しましたが、※私が一番心を許し、尊敬し、お世話になった大切な義兄でした※
◆角膜の細胞◆
角膜は内皮の細胞が2000以下では不適合と言われていますが、96歳の義兄の細胞は3400あったそうです、角膜の寿命は200年と言われていますが納得させられました。
◆感謝・感謝の献眼◆
平成28年1月に國廣佳子様の申し出によりご主人の崇高なる10人目の献眼を頂きました。
◆実は、國廣佳子さんは新南陽若山ライオンズクラブが献眼活動を始めて20年目の節目の年に、ご御尊父の献眼をして頂き、クラブが献眼活動に勇気付けられた恩人です、御尊父の献眼は一周間ぐらい時間を問わずやり取りし、申し出の言葉が今でも忘れられません。午前二時ごろ「お待たせしました」と一報が入ったのです。◆
◆今回は違っていたのです◆
平成28年1月6日お正月明け仕事始めの10時ごろ運転中に携帯が鳴ったのです。何か予感がして車を止めて電話にでたのですが、聞きなれた声なのに何方か解りません、何方ですか「國廣です」いつもと違う動揺された声です、どうされました。「主人が先ほど亡くなりました献眼の手続きをお願いします」寂しげな憂いを帯びた言葉に、御尊父様の時の「お待たせしました」が交錯するのです。
◆弟の献眼◆
平成29年12月11日 弟が79歳で急逝し11人目の崇高なる献眼を頂きました。弟は、親思い、兄弟思い、家族思いの優しい性格でした。何故か献眼登録はして居なかったのですが、母の献眼、義兄の献眼に感激しておりました。常に私の献眼活動をそれとなく支持してくれておりました、突然の訃報でしたが生前の気持ちを叶えてやりたくて献眼を申し出ました。本人の献眼登録が無くても家族の申し出があれば献眼できるようになっていますが、本人の献眼登録が確認できることがコーデネイターも安心して手続きできる事を身を持って知らされました。
◆私が思う確実にできる献眼◆
献眼登録をし、亡くなったら最高の人間愛として、暗黒の世界で愛の光を待ち望んでおられる失明者の方に人生最後の奉仕として角膜提供を望んでおられた方の献眼が出来なかった例をいくつか見てきました。
確実に献眼できるのはこれしかありません
献眼宣言書 私の人生最後の社会奉仕は、崇高なる人間愛 献眼であります 私の臨終に際しては、確実に献眼手続きをして頂きますよう、遺言と致します
◆額縁に入れて家族の目につく居間に飾るのです、入院した時は持参してベッドに飾るのです◆