新南陽富田護国神社清掃奉仕

※令和5年9月16日土曜日、9時より周南市連合遺族会、絆クラブ大川会長主催の護国神社草刈清掃作業に会員3名お手伝いに参加致しました。もともと新南陽富田護国神社は新南陽地区の遺族会の皆様が環境整備をしておられましたが高齢化によりやむを得ず解散となり、見かねて周南市連合遺族会、絆クラブ大川会長が肩代わりされたものです。

新南陽若山ライオンズクラブは毎年12月の暮れに国民の平和を願い若い命を捧げられた御霊が眠る聖地が新年を迎えるための、拝殿のしめ縄と鳥居のしめ縄2本を境内でつくり奉納しております。そのご縁で今回のお手伝いとなりました。12月のしめ縄奉納には絆クラブの応援を頂けます。

 

※清掃作業スナップ写真

 

作業開始、20㎝に伸びた雑草の刈り取り、絆クラブの皆さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ちょっと一休                                    中央 大川会長

※ごみの後始末

※ 清掃奉仕完了、皆さんさわやかな表情  お疲れさまでした。

※政教分離の原則で、これからどうなる護国神社                                         護国神社は遺族会が環境整備を行っています、すでに遺族会も高齢になり5年うちには遺族会も自然消滅するのではないでしょうか、政教分離で行政も手が出せないのが実情です。                                                                   護国神社への想い    文責 山本二雄                                      私は、1932年に12月21日出生し今年で90歳となりました。富田護国神社「新南陽富田護国神社」の由来は2020年1月2日のホームページに掲載いたしましたが、ここでは周南市平野出身の飯田房太中佐を偲んで一筆したためます。                                                                                             ◆新南陽富田護国神社に眠る故飯田海軍中佐◆

    

◆富田国民学校小学2年生の昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争が始まり小雪のチラつく寒い朝、全校生徒が運動場に整列し校長先生から開戦の訓示があり、富田平野出身の飯田房太大尉(28歳)が真珠湾攻撃で戦死されたことを知りました。当時の男の子は飯田大尉は憧れの的でした、真珠湾攻撃で第二次攻撃隊第三制空隊長として零戦に搭乗、僚機を率いて航空母艦蒼龍を発艦し、カネオ飛行場を襲撃し大戦果を挙げましたが、対空砲火で燃料タンクが被弾し帰艦不能と判断した飯田大尉は、母艦に帰投する僚機を誘導し、その進路を示した上で、僚機に手を振って別れを告げ、傷ついた愛機を操縦してカネオへ引き返し飛行場へ突入し自爆散華されました。戦死後二階級特進され海軍中佐となられました。  米海軍は、飯田中佐の勇気を称え基地内に埋葬。真珠湾攻撃三十周年の1971年に記念碑を建立しました。米国人の腹の奥深さに頭が下がります。

◆国と国民の平和を願い若くして命を捧げた御霊が眠るこの聖地、遺族会なきあとを思うとき胸が痛みます◆

 

 

 

 

 

 

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